• 新宅 睦仁

更新日:2019年9月10日


「悪いな。もう、おまえには飽きたんだ」


昔の安いドラマにあるお決まりのセリフである。そして女はすがりつき、なぜ? どうして? と泣くことになっているが、そう言われても飽きたものは飽きたとしか言いようがない。


とにもかくにも人は飽きる。洋服や音楽は言わずもがな、仕事や住宅、時には人生そのものにさえ飽きてしまう。ひょっとすると、世界の経済は原油価格なんかよりも、よほどこの〈飽き〉に振り回されているのかもしれない。すなわち、飽きたから捨てるのであり、飽きるから新しいものを求めるのである。


飽きると同様に、人は慣れる。あるいは戦争でさえ慣れることができるらしいが、しかし、この世に飽きないものもまたないのだろうか。34年ほど生きてきた私の率直な実感としては、飽きないものはない。お気に入りの服も毎日着れば飽きるし、好物とて毎食も食べれば飽きるだろうし、いくら好きな人でも始終べったりしていれば飽きてしまう。


それでも飽きないのだと言う人は、何か無理をしているか、そういうものなのだと諦めているのか、あるいは〈悟りの境地〉に達しているとしか思えない。少なくとも、私は飽きる。人間とは、そのようにできているのだと思う。


しかし、その考えも、どうやら再考せざるを得ないと思わずにはいられない一節に出くわした。以下、少々長いのだが、【子どもとことば(岩波新書)岡本夏木】より引用させていただく。



これを読んで、私はいささか恥じ入った。私はあまりにも物事を無味乾燥な記号的に捉えるきらいがあるからだ。


誰でも人は変化する。昨日と今日が、いくら似ていても二度とは再現されることのない、かけがえのない一日であるように。にも関わらず、私は往々にしてその変化を無視してしまうのである。


なぜなら、変化とは実に面倒くさいものだからだ。たとえば、女性は髪型の変化に気づかれないと嘆いたりするが、しかし、あくまでもAさんはAさんであり、BさんはBさんでしかない。BさんがCさんにでも変わったというのならば刮目もするが、髪の毛がちょっと短くなったかうねらせたかに、いちいち気づけというほうが無理である。


仮にどぎつくパンチパーマになっていたとしても、目に染みるようなスキンヘッドになっていたとしても、その人はその人でしかない。どんな人でも、私がいったんこうだと認識するやいなや、たちまちメデューサに睨まれたように石化して、完全に停止してしまうのである。


そうして飽きが生じるのは、自明の理であろう。だが、しかと目を見開けば、いわゆる心の目で相手を見てみれば、『決して旧くならず、いつでも新し』く在りうるのである。それは発見の連続だということだ。私も幼少の時分は確かにその通り、日々は新鮮な驚きと感動に満ち溢れていた。そのことを思えば、私はなんとつまらなく世間ずれしてしまったものだろうかと悲嘆に暮れてしまう。


やはり、どのような意味においても、大人になることは哀しい。子どもの言う、お母さん、お母さん、お母さんというたわいない繰り返しが、しかしその都度新鮮な響きを持って胸に広がっているとは、いったいどれほど感動的なことだろう。あるいは六十の還暦は、そのような境地が再び訪れることを言うのかもしれない。そうだとしても私には、孫に囲まれて赤いちゃんちゃんこを着せられているどころか、ひとりやるせなく酒を呑んでいるような画しか浮かんでこないのである。

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  • 新宅 睦仁

いわゆる「アメ車」について語るのではない。アメリカにおける車の話である。

しかし現代、車なんて輸出したり輸入されたり、世界中どこでも同じだろうと思う向きもあろうが、違う。断じて違う。


北海道どころではない広大さであるアメリカにおいて、車は洗濯機なみの日用品である。なので、その使い方には気取りがない。


気取りがないどころか、何も考えていない。アメリカの車道を三分も眺めていればわかる。事故車と呼ぶべき車がふつうに――つまり何も考えずに――走っている。


車全体がさびているの、ライトが割れているの、横っ面が大きくへこんでいるの、バンパーがはずれているの。それをガムテープや荷造りヒモなんかで適当に直して乗っている。ある車など重度のへこみに絆創膏のステッカーを貼っていたから笑った。


見上げたDIY精神と言えなくもないが、事故車がそのまま走っているというのは、「私は事故しました」と言って回っているのと同じである。人間で言えば「私は痴漢しました」とか「盗みを働きました」という看板を首からぶら下げているのと変わらない。


少なくとも日本人ならそう思う。だからルース・ベネディクトは日本は恥の文化であると「気がついた」のかもしれない。確かに、事故車で走ることは罪の問題ではなく恥の問題であろう。


とまれ、車の扱いがそういう感じなので、運転においてはいわずもがなである。

恥の意識の有無かどうか知れないが、彼らの運転は概して子供のように無邪気である。あちらに行きたい、こちらに行きたいという動きが実にストレートなのだ。


たとえば駐車場から車道に出るとき、歩道の手前で一時停止するのは常識どころか義務であろうが、アメリカは違う。一気に出る。さらにはその状態で、車が来る方向だけを見て(1分でも2分でも逆方向は一切見ない)車の波が途切れるのを待っているので、歩道を逆方向から来ようものなら確実に死角にされて轢き殺されそうになる。


最初こそ憤っていたが、そのうち、これは「アメリカンウェイ」というべきものなのではないかと考えるようになった。左右を見るという習慣がないのではない。それはもっと深いレベルで論じられるべきもので、そう、「脇目も振らず我が道を突き進む」という、アメリカ的哲学の表れなのかもしれない。いやほんと、まじめな話。

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